本日の投稿は乗り鉄記ではありません。今回の遠征で現地を訪れた感想と当時の記憶などを交えて率直な気持ちを書きます。(重めの内容かつ文章メインになることをご了承下さい)
2011年3月11日(金)14時46分、この日時を忘れることはおそらくないでしょう。東北地方を震源とするM9.0、最大震度7の地震とそれによる大津波で東北〜関東の太平洋側に甚大な被害をもたらしました。当時私は小学3年、実家のある埼玉も大きな揺れがあり震度5(弱か強かは覚えていない)でした。プリントが配られ名前のある文字を途中まで書いていた時に地震が発生したため机の下に潜りその後校庭に避難しました。ちなみに休日を挟んだ月曜日の登校時、書き途中の名前と置かれた鉛筆がそのまま残っているのを今でも覚えています。避難後、かなりの時間が経過したあと母親と自宅に帰りましたが停電していたためテレビは見れず情報はラジオのみでした。その後、余震が続いたようですが私は気づかず親の隣で寝たようです。
翌日には停電も復旧したのでテレビを付けるとそこには信じられない風景ばかりが流れていました。ここまでの被害になっているとは到底想像できず当時9歳でしたがとても衝撃を感じました。東北には友人や親戚などはおらず自分たちも大きな被害を受けていないため大きな影響はありませんでしたが当事者だったとしたらと考えると言葉が見つかりません。
時は流れ高校生になり一人旅をするようになりましたが東北は当時あまり興味がなく訪れることは多くありませんでした。ですが2020年3月、今更ながら東北に行くことにしました。その時はダイヤ改正を挟んで復旧前後の常磐線に乗車しました。代行バスからは人の生活を感じれる場所に隠れて9年前のまま止まっているところもありました。時が経つにつれ報道も減り情報が得にくくなっていたためこの光景を見て驚きました。そしてその2週間後、常磐線が全通し仙台行きのひたちを乗り通しました。復旧した区間は駅で降りれるもののバリケードが多く無闇には行動できません。鉄道の復活はその地域にとってとても大きな意義があることは事実ですが正直それ以上のことはありません。まだまだ完全復興とは言い難い状況です。この時は一ノ関から大船渡線で気仙沼まで向かい震災伝承館も訪れました。被害を受けた校舎や流された瓦礫など想像を遥かに超える凄まじい被害を思い知らされ心が痛くなりました。実際に現地へ行かないと分からないことがたくさんあることを痛感しました。そして今回はBRTと三陸鉄道に乗車しました。鉄道での復旧は莫大な費用と時間がかかるためバスにシフトした気仙沼線と大船渡線。一方で旧JR区間を含め鉄道で復活させた三鉄。両者に違いはありますが地域の公共交通としてはなくてはならない存在です。BRTは少子高齢化が加速する地方ではバリアフリーかつ鉄道時代より本数が増加したことで新たな手段として見直されています。今はコロナ禍でぜひお越し下さいと現地の方は言いにくい状況かもしれませんがまさに百聞は一見にしかずです。もちろんこれは東日本大震災に限った話ではありません。私たちにできることは自分の足で訪問し少しでも貢献することと風化させないよう心に留めておくことだと思います。(さらに時代が進めば後世に語り継ぐことも必要でしょう)
まさか在来線特急で仙台の表示を再び見れる日が来るとは思ってもいませんでした。
長くなりましたが当時を思い出し、現地を訪れた経験を通して抱いた感想です。災害の多い国である日本。ここ最近は大雨による被害が多発しています。危機意識と日頃から防災対策などをして自分や大切な人を守る必要があります。いつどこで何が起こるかは予想できないことも多いので過去の経験から学ぶしかありません。最後に被害を受けた全ての皆様に心よりお見舞い申し上げると共に少しでも早い復興をお祈りいたします。